掃除をするということ(角田光代著『ツリーハウス』を読んで)

掃除をするということは、物理的には汚れを取り除く行為だけれど、気持ちとしては「家」を創り出す行為だと思う。

一人暮らしの頃ももちろん掃除はしていたのだけれど、それは単に不衛生な部屋で暮らすと不快だからというだけだった。二人で暮らすようになって、2LDKしかないし賃貸だけど、ここが自分の城だという感覚が強くなった。ちゃんと人間が暮らしていて「家」がきちんと運用されていたいから、ここで我々は淀みなく日常を成り立たせていたいから、掃除をしている。

数年付き合っている人がいるという状況に対して「でも幸せだからいいじゃん」と締めくくられることがある。

しかし、私が東京に来たら最初からこの家があったわけではない。すべて0から、何もないところから創り出す必要があった。結婚出来ないから何の祖先にも結び付かない、系譜の枠外に突如現れる形で。家は放っておけば汚れるし錆びるし壊れる。常にメンテナンスを怠ってはならない。何も変わらないように見える日々を維持するには、常に何かを創り出す必要がある。これまでそんなことつゆ知らず、考えようともしなかったが、私達の父母も祖父母もそれらを滔々と行ってきていたのだ。

家には、祖先を根とする過去が必要なのではなく、これから何かを新たに創り出していく希望が必要なのだという趣旨の記述が掲題の著書にあるのだが、引いて考えると、今普通に送っている日常を一生懸命変わらず成り立たせていくことこそが、実は明日への希望なのではないかと思った。