インスタ映えしない幸せ 西加奈子著 『地下の鳩』について

誰にも分かってほしくないから
日記にかかない幸せ

超不安だから超食べちゃう
太っていいよとか言わせちゃう


大森靖子の『あまい』の一節だ。
「誰にも分かってほしくない幸せ」、それはどういうものだろう。

一緒にいるだけでどこに行ってもすべてが初めてで、何をしていても嬉しくて真夜中コンビニまでの道でキスなんてしてみたりして、そんな男女も一緒にいるときが長くなるにつれて、例えば、並んで同じベッドで迎えた朝、相手の寝顔にこびりついた目やにを醜く感じたり、家で二人で映画を観ているときに相手が放った屁に顔を歪めたり、いつしか息を吸って吐いてしている限り必ず生じる生理的な醜さが目につくようになる。

更に長いときを過ごすと、男の頭は禿げ上がり、腹はズボンのベルトにふてぶてしく乗っかる。
女の二の腕は餅のようにずるりと垂れ下がり、頬にはくっきりとほうれい線が刻まれる。

西加奈子の『地下の鳩』には、そういった醜さと並存する男女の愛情が書かれていた。
というよりは、愛情とは一緒に醜くなっていくことなのかもしれないと思った。

男女(男男でも女女でもなんでも良いのだが、ここでは便宜的に男女と書く)が一緒に生きていくとき、少なからず男は女の、女は男の人生を拘束することになる。物理的に最も長いときを過ごす相手なのだから、女のシミは、男の突き出た腹は、ほとんど相手の男が女がつくりあげたと言えるような状態になる。
そうやって一緒に醜くなっていくことを恐ろしいと思わず受け容れられるようになる愛情が、この小説では丁寧に美しく描かれていた。

これに当てはまらないものは本物の愛ではないというようなことを言いたいわけでは決してない。
しかし、女:みさをの頭に鳩の糞が付いているのを見た男:吉田の様子を「でも吉田は、みさをのことが、まだ好きだった。」と書いてこの小説は締め括られている。
とにかく美しいと思った。

更に、この小説は柔らかな愛をただ甘ったるく書いているわけではなく、「でも、吉田は、みさをのことがまだ好きだった。」となるまでの過程をお互いのバックグラウンドを含めてとても緻密に丁寧に書いている。
だからこそ、吉田がみさをの醜さを愛する様子がとても美しく映る。

全然清潔じゃない、とても人に言えないようなしあわせは、とても美しいのだなと思った。

 男がベランダでタバコを吸う様子をレースのカーテン越しに眺めていた。

 湿った布団に横たわり、事を終えても尚私は下腹部に男の感触をありありと感じていた。体の一部とは言えどここに本当に彼が入っていたのだな、と処女を喪失したばかりの娘のようなことを考える。

 開け放たれたベランダの窓から、湿り気を帯びた生ぬるい風とともに微かなセブンスターの匂いが流れんこんでくる。どこかで救急車のサイレンが通り過ぎ、ベランダの下の駐車場からは子供が奇声をあげながら走り回っている様子が聞こえてきた。窓の外に見える陽は既に山間に隠れそうなほど傾き、空を薄紫色に染めていた。

 起き上がろうとするがうまく脚に力が入らない。布団の周りに無造作に散らばった男のパンツやら靴下やら自分のブラジャーやらを這うようにしてかきあつめ、洗面所に向かった。汗に濡れた二人の下着と洗濯籠に溢れんばかりに積み上げられた衣類をいっしょくたに洗濯機へ放り込み、目分量で粉洗剤をふりかける。スイッチをいれると洗濯槽へ勢いよく水が放出され、その流水音で自分が尿意を感じていたことに気が付いた。

流れる河を泳ぐ

先日知人から、三年程付き合っている男と別れたいと思っていることを聞いた。
相手の男は自分からスキンシップを求めてこようとしないこと、なのでこちらから求めなくなればもう触れることすらなくなったこと、最近相手の男は何かの用事と用事の間を埋めるように呼び出してくること(丸一日二人で過ごすようなことがなく、例えば今上野で二時間ほど時間が空いたから来てくれ、というような会い方しかしないそうだ)、飲食店の店員に対する態度が横柄なこと、もう相手の醜い部分しか目につかなくなってしまったこと。けれど関係を終わらせるために行動を起こすほどのエネルギーもなく、無為に三年間を過ごしてきたことを聞いた。

この知人の話が、自分の人生と無関係なものとはどうしても思えなかった。

私には意味もなく関係を続けている男がいるわけではない。わけではないが、ではどうしてそうなのだろう。
どうして私は意味もなく男と関係を続けている状況にいないのだろう。

くだんの知人の話を聞いた際、自分でも明確に理由が解らないが、これは私がなるかもしれなかった姿、もしくは将来なるかもしれない姿だ、と思った。
急に強く、「ああ、私は人生を選びとっているようで、ずっと何者かに選ばれてきたのではなかろうか」と思ったのだ。
私の今の人生は、すべて何者かに押し流されて流れ着いた結果なのではないか。

高校を卒業して田舎を出たこと、大学を卒業するとそのまま東京で就職したこと、就職して一年ほどで恋人ができたこと、特に思い入れのあるわけでもない会社に居続けていること。これらは私が意志をもって選びとったことなのだろうか。
なんだか大き何かに押し流されてここにやって来た気がするのだ。
「もし今の脳みそのままであの頃に戻れたら」等と想像すると一瞬理想の人生を歩めそうな気がするが、人生のどの時点からやり直したとしてもやはり今私がいるここにたどり着いてしまうのではないだろうか。

そうは思いながらも、きっとこれからもあらゆる場面で選択を迫られ、悩み、やっぱりああすればよかったと後悔し、それがどれほど年を重ねても繰り返されるのだろう。

もしも江國香織が村上春樹に抱かれたら

「やれやれ。射精しても?」

 春樹はそう言うとあたしの返事を待たずして果ててしまった。

 春樹はいつでもそうだった。自分の問い掛けにあたしはYESと答えると信じて疑わなかったし、あたしは実際にそうした。春樹に連れられるがままにニューヨークの街を走り回り、抱きたいと言われればどこでだって ー春樹のアパートメントのベッドで、浴室で、ベランダで、一度は砂浜でー 春樹の求めるがままに互いを貪り合った。

 

 あたしの名前は江國香織。教師の母と官僚の父に半ば監禁されるようにして育ったあたしは -あたしは少なくともそう感じていた- 高校を卒業するとほとんど逃げるようにしてニューヨークへの留学を決めた。とにかくあたしを「いい子」にさせたがった両親は近くの女子大にあたしを入れたかったみたいだけど、演劇の勉強をするのだとか言って説き伏せた。理由なんてなんだってよかった。あたしはただ逃げ出したかった。あたしがあたしであることを拒む全てから。

 あたしはニューヨークで過ごす最初のサマー・ホリデイの夜にセントラル・パークで春樹に出会った。

 「今空には月がいくつあるかな」

 春樹はベンチに座った不機嫌なあたしにそう言った。

 「残念ながら一つしかないみたい」

 「それでいいんだ。君が好むと好まざるとに関わらず、世界はそうあるべきだ」

 今思えば、女の子に声を掛ける方法としてそれはあまりに粗雑だった。

 春樹はあたしの隣に腰掛け、作り話を聞かせた。春樹は、自分は月の二つある世界から来たのだと言った。

 その頃のあたしは只何かが変わることを待ち望んでいた。誰かにどこかへ連れ出して欲しかった。あたしがあたしで居られるところへ。

 春樹は白いスバルフォレスターにあたしを乗せて -それはニューヨークの街ではとても目立った- 毎週のように色々なところへ連れ出した。何日もかけてフロリダまで走ったこともあった。

 春樹はあたしにとってヒーローだった。春樹があたしに見せるすべての景色が初めてだったし、春樹とならあたしは無敵だった。それこそがあたしが求めていた自由だと思い込んだ。あたしはこのために日本を飛び出したんだと。

 あたし達はいつだって二人組で、例え今夜世界がなくなってもあたし達は同じベッドで抱き合って眠るんだと信じていた。

 

 だけどあたしは今、繋がったまま寝息を立て始めた春樹の下で何も感じなくなっている。ハチミツのように甘かったキスの感覚も、指を絡ませた手の温度すら、すべてが変わってしまった。

 

 

 

 

 

 

「本当の自分」

ツイートしようと思ったことがどう考えても140字に収まらないのでブログに書くことにした。

「本当の自分とは」を一度めちゃくちゃ本気で考えてみたことがある。

友達といるときの私と彼氏といるときの私、親といるとき、職場で、コンビニの店員に「レシートいりません」っていうとき、世の中のすべてに怒ってた中学の頃、根拠のない自信に溢れてた大学生の頃、今。

それぞれの時と場所で「自分」は話し方も考え方も好みも全然違う。本当の自分はどれなんやろ。まるでそれぞれ別の人間みたい。

仕事関係のお酒の席で乾いた笑顔を浮かべながら『違う!本当の私はこんなんじゃない!ちゃうねん!』と言い訳したくなるときがある。叫びたくなるときがある。

なら、どの時間どの場所の「自分」を切り取って持ってきて、はいどうぞと見せたら「これが『本当の自分』です、存分にご覧下さい」と言えるのだろう。

コンビニの店員に「レシートいりません」と言いながら「見て!これが私!これが本当の私や!」と言う人間はまずいないだろう。

けれど、私とこれを読んでいるあなたは「レシートいりません」のイントネーションも声の高さもきっと違う。コンビニ店員にすら良く思われたくて愛想をふりまいているかもしれないし、天性で愛想がいいかもしれないし、何か気に障ること言うたかなってくらいぶっきらぼうかもしれない。

それは紛れなくあなたがあなたであり、私が私であるからだ。

「本当の自分」なんて存在しない、あるいは全部本当の自分だ。
取り繕って演じていたとしても、演じることを、演じ方を選択したのは自分が自分であるからだ。
過去と今で考え方が全く変わっていても、「自分」がどこかでぶつ切りになって今が形成されたわけじゃなくて。絶え間なく自分であり続けた結果が今なのだ。

でもやっぱり「ちゃうねん!」が色んなとこで出てきてしまう。引っ込んどいて欲しいのに、しつこく顔を出す。

「ちゃうねん」を「せやねん」に変えていかないと、思わず「ちゃうねん」って言いたくなる自分をなかなか変えられないけど、言うは易し行うは難し。

つぶつぶになってバラバラになって

 自民党杉田水脈議員がLGBTについて新潮45へ投稿した内容で賛否両論を呼んだ。

 程なくして男性同士で結婚式を挙げたゲイの方が、日本にLGBT差別はないと思わせる内容をSNSに投稿し、賛否両論を呼んだ。これは杉田水脈議員の投稿よりも私にとっては衝撃だった。恋人と住宅ローンが組めないこと、恋人が要介護となっても社会制度で守られないこと、どちらかが死亡しても遺産を相続出来ないこと、遺体が引き渡されないこと、これら男女の婚姻でないという理由で得られない権利をすべて無視出来ることに衝撃を受けた。

 私は、杉田水脈議員のLGBTに特別な支援をする必要はないという思想を批判出来ない。自分は差別を受けず幸せに生きているというゲイの方の主張を批判出来ない。

 彼らが批判を浴びた一番の原因は、理解できないものを排除されるべきもの、或いはなかったものとして扱う論調ではないだろうかと思う。LGBTへの支援よりも少子化対策に優先的に資金を投入するべきだと主張する上で、LGBTが異常だという表現は必要だっただろうか。「生産性がない」という乱暴な表現が必要だっただろうか。自身の婚姻が幸福なものであると述べる上で、自身がセクシャルマイノリティであることを理由に不当な扱いを受けていると感じている人々の思いをなかったことにする必要があっただろうか。

 当然のことだが、だからといって杉田水脈議員はその思想故に暴力的に排除されたり人権を侵害されてはならないし、件のゲイの方の幸福は不当に奪われたり否定されてはならない。

 例えば私達を細かいつぶつぶにして切断してみたとき、ある断面ではマジョリティでも別の断面を見るとマイノリティかもしれず、大勢が完全に同質になるということは永久にあり得ない。

 杉田水脈議員も結婚の幸せを叫ぶゲイも彼らに暴言を吐く人々も、同質を求めるのではなく「ただそこに在る」ものとして互いを理解も排除もしないでおくだけではいけなかったのだろうか。

 そうやって排除しあわずバラバラに生きていたら、もしかしたらどこかで一瞬重なり合うこともあるかもしれない。みんながつぶつぶになって色んな切り口で切れる人間になっていけば、きっともっと生きやすい世界になっていく。

chu chuプリン

雨宮かのんのchu chuプリンの歌詞が死ぬほど好きなのにぐぐってもテキスト化された歌詞が出てこないから書いただけの記事。


今日も新宿西口
踵を踏んで ごめんなさい
ヒールも心も折れた
優勝は私じゃない

ぬぐえない劣等感
愛されてみたかった

誰だっていいんでしょ
私だっていいじゃない

抱きしめてよ ママ
夢に見ていた東京
今は 大嫌い

ずっと楽しみにしてたプリン
賞味期限切れなんて
まるで私みたいだねと

誰も笑ってくれない


座りたかった優先席
つま先立ちは疲れた

誰もいない家に帰る
冷えたビールが待ってるわ

慰めてよママ
夢に出てた景色 空気
汚いわ

ずっと期待してたプリン
賞味期限切れなんて
なんのために生きてたの
明日といっしょに死にたい

占いなんて信じないけど
二位だったから 小さく幸せ

完璧なんてつまんないのよ
ほら面白くさせてよ

ずっと期待してたプリン
消費期限切れなんて
もう食べれなくなっちゃった

でもお願い
捨てないでね