流れる河を泳ぐ

先日知人から、三年程付き合っている男と別れたいと思っていることを聞いた。
相手の男は自分からスキンシップを求めてこようとしないこと、なのでこちらから求めなくなればもう触れることすらなくなったこと、最近相手の男は何かの用事と用事の間を埋めるように呼び出してくること(丸一日二人で過ごすようなことがなく、例えば今上野で二時間ほど時間が空いたから来てくれ、というような会い方しかしないそうだ)、飲食店の店員に対する態度が横柄なこと、もう相手の醜い部分しか目につかなくなってしまったこと。けれど関係を終わらせるために行動を起こすほどのエネルギーもなく、無為に三年間を過ごしてきたことを聞いた。

この知人の話が、自分の人生と無関係なものとはどうしても思えなかった。

私には意味もなく関係を続けている男がいるわけではない。わけではないが、ではどうしてそうなのだろう。
どうして私は意味もなく男と関係を続けている状況にいないのだろう。

くだんの知人の話を聞いた際、自分でも明確に理由が解らないが、これは私がなるかもしれなかった姿、もしくは将来なるかもしれない姿だ、と思った。
急に強く、「ああ、私は人生を選びとっているようで、ずっと何者かに選ばれてきたのではなかろうか」と思ったのだ。
私の今の人生は、すべて何者かに押し流されて流れ着いた結果なのではないか。

高校を卒業して田舎を出たこと、大学を卒業するとそのまま東京で就職したこと、就職して一年ほどで恋人ができたこと、特に思い入れのあるわけでもない会社に居続けていること。これらは私が意志をもって選びとったことなのだろうか。
なんだか大き何かに押し流されてここにやって来た気がするのだ。
「もし今の脳みそのままであの頃に戻れたら」等と想像すると一瞬理想の人生を歩めそうな気がするが、人生のどの時点からやり直したとしてもやはり今私がいるここにたどり着いてしまうのではないだろうか。

そうは思いながらも、きっとこれからもあらゆる場面で選択を迫られ、悩み、やっぱりああすればよかったと後悔し、それがどれほど年を重ねても繰り返されるのだろう。