もしも江國香織が村上春樹に抱かれたら

「やれやれ。射精しても?」

 春樹はそう言うとあたしの返事を待たずして果ててしまった。

 春樹はいつでもそうだった。自分の問い掛けにあたしはYESと答えると信じて疑わなかったし、あたしは実際にそうした。春樹に連れられるがままにニューヨークの街を走り回り、抱きたいと言われればどこでだって ー春樹のアパートメントのベッドで、浴室で、ベランダで、一度は砂浜でー 春樹の求めるがままに互いを貪り合った。

 

 あたしの名前は江國香織。教師の母と官僚の父に半ば監禁されるようにして育ったあたしは -あたしは少なくともそう感じていた- 高校を卒業するとほとんど逃げるようにしてニューヨークへの留学を決めた。とにかくあたしを「いい子」にさせたがった両親は近くの女子大にあたしを入れたかったみたいだけど、演劇の勉強をするのだとか言って説き伏せた。理由なんてなんだってよかった。あたしはただ逃げ出したかった。あたしがあたしであることを拒む全てから。

 あたしはニューヨークで過ごす最初のサマー・ホリデイの夜にセントラル・パークで春樹に出会った。

 「今空には月がいくつあるかな」

 春樹はベンチに座った不機嫌なあたしにそう言った。

 「残念ながら一つしかないみたい」

 「それでいいんだ。君が好むと好まざるとに関わらず、世界はそうあるべきだ」

 今思えば、女の子に声を掛ける方法としてそれはあまりに粗雑だった。

 春樹はあたしの隣に腰掛け、作り話を聞かせた。春樹は、自分は月の二つある世界から来たのだと言った。

 その頃のあたしは只何かが変わることを待ち望んでいた。誰かにどこかへ連れ出して欲しかった。あたしがあたしで居られるところへ。

 春樹は白いスバルフォレスターにあたしを乗せて -それはニューヨークの街ではとても目立った- 毎週のように色々なところへ連れ出した。何日もかけてフロリダまで走ったこともあった。

 春樹はあたしにとってヒーローだった。春樹があたしに見せるすべての景色が初めてだったし、春樹とならあたしは無敵だった。それこそがあたしが求めていた自由だと思い込んだ。あたしはこのために日本を飛び出したんだと。

 あたし達はいつだって二人組で、例え今夜世界がなくなってもあたし達は同じベッドで抱き合って眠るんだと信じていた。

 

 だけどあたしは今、繋がったまま寝息を立て始めた春樹の下で何も感じなくなっている。ハチミツのように甘かったキスの感覚も、指を絡ませた手の温度すら、すべてが変わってしまった。