つぶつぶになってバラバラになって

 自民党杉田水脈議員がLGBTについて新潮45へ投稿した内容で賛否両論を呼んだ。

 程なくして男性同士で結婚式を挙げたゲイの方が、日本にLGBT差別はないと思わせる内容をSNSに投稿し、賛否両論を呼んだ。これは杉田水脈議員の投稿よりも私にとっては衝撃だった。恋人と住宅ローンが組めないこと、恋人が要介護となっても社会制度で守られないこと、どちらかが死亡しても遺産を相続出来ないこと、遺体が引き渡されないこと、これら男女の婚姻でないという理由で得られない権利をすべて無視出来ることに衝撃を受けた。

 私は、杉田水脈議員のLGBTに特別な支援をする必要はないという思想を批判出来ない。自分は差別を受けず幸せに生きているというゲイの方の主張を批判出来ない。

 彼らが批判を浴びた一番の原因は、理解できないものを排除されるべきもの、或いはなかったものとして扱う論調ではないだろうかと思う。LGBTへの支援よりも少子化対策に優先的に資金を投入するべきだと主張する上で、LGBTが異常だという表現は必要だっただろうか。「生産性がない」という乱暴な表現が必要だっただろうか。自身の婚姻が幸福なものであると述べる上で、自身がセクシャルマイノリティであることを理由に不当な扱いを受けていると感じている人々の思いをなかったことにする必要があっただろうか。

 当然のことだが、だからといって杉田水脈議員はその思想故に暴力的に排除されたり人権を侵害されてはならないし、件のゲイの方の幸福は不当に奪われたり否定されてはならない。

 例えば私達を細かいつぶつぶにして切断してみたとき、ある断面ではマジョリティでも別の断面を見るとマイノリティかもしれず、大勢が完全に同質になるということは永久にあり得ない。

 杉田水脈議員も結婚の幸せを叫ぶゲイも彼らに暴言を吐く人々も、同質を求めるのではなく「ただそこに在る」ものとして互いを理解も排除もしないでおくだけではいけなかったのだろうか。

 そうやって排除しあわずバラバラに生きていたら、もしかしたらどこかで一瞬重なり合うこともあるかもしれない。みんながつぶつぶになって色んな切り口で切れる人間になっていけば、きっともっと生きやすい世界になっていく。